目覚め

朝目が覚めると台所から食器がかちかち鳴るのが聞こえた。ぼんやり流れてくるNHKアナウンサーの声は今が間違いなく朝であり、私としてはかなり早い方の朝だということを伝えていた。体は動かさずに顔を右に向けるとやはりそこはからっぽで、私の寝相での悪さで飛んで行った掛け布団とシーツのシワだけが残っていた。母がすでにそこにはいないことを確認するともう一度台所の音に耳を澄ます。お湯を沸かす音、蛇口から水が流れる音。いつもと同じはずなのに何かが違う。一つ深呼吸をしてから私はそろりとベッドを後にした。

 

この家は母のもので、普段は母が一人暮らしをしている。こじんまりとした2LDKで、洋室を和室が一つずつ。優雅に寝たいという母の理想によって運び込まれた不似合いなキングサイズベッドが洋室を占領している。居候である私はお情けでこのキングサイズベッドの左側を使わせてもらっている。なぜか母は右側にいることを好む。例えば街を歩く時。カウンターに並んで座る時。私にはそんなこだわりはない。だから私はいつも左側にいる。

 

台所にいたのは母ではなくクマだった。クマは私が生まれる前からの両親の友人で、今では半分家族のような存在である。両親が不在の間私と弟の架の面倒をみるのは決まってクマだった。

「おはよう、クマ。母さんはどうしたの?」

「あら結さん、珍しく早いじゃないの。雪乃さんはね、いないよ」

「出かけたの?」

「うん、出かけたのさ」

クマの言い方は淡々と、冷えたコップを手渡すようにさらりとしていた。ひんやりとしたそのコップを受け取った私の指は冷たく、ベトベトした水滴が指を伝うようだった。

 

母が突然どこかへ行くのは珍しいことではなかった。ドライブが大好きな彼女は私たちが小さい頃から休みの日や朝、夜遅くに車とともにどこかで出かけて行った。弟が反抗期だった頃、母とはしょっちゅういがみ合っていて、二人が大声で怒鳴ったり、物を投げたり、終いには母が涙声でもはや聞き取れない何かを叫ぶのが聞こえた。いつも私は恐ろしくて、子供部屋に籠って音楽を聞いていた。怒鳴りあいの後しばらくすると母は決まって車のキーを持って外で出て行く。9時だろうと10時だろうと11時だろうと。私は相変わらずヘッドホンをつけたままで、それでも聞き耳を立ててドアが閉まる音のする時間を記憶する。そして布団に入り、時計を見ながらずっと聞き耳を立てている。2時、3時、カタン。誰も起こすまいとそっと忍足で帰宅する母の鍵の音、ドアが開らき、そっと閉まる音。毎回その音を聞くまで眠れなかった。いつか愛想を尽かした母が私たちを置いて外の暗闇に消えてしまうんじゃないかと不安だった。高校生の頃、何度こんな夜をやり過ごしたか知れない。

 

「出かけた?どこへ?」

「わからないさ。でも、舟に乗ったんじゃないかね」

「舟ってまさか、海へ?」

「さあ、わからないさ。雪乃さんのことだ、誰もわかりゃしないよ」

「でもクマ、あなた、舟に乗ったんじゃないかって言ったじゃない。今朝もこうしてここにいるじゃない。母さんに会ったんじゃないの?今朝あるいは昨晩遅くに」

「そうだね、会ったよ。私は彼女が出て行くのを見た。今朝4時くらいだったかな。車に乗ってた。でもわかるだろ、私は彼女に話しかけることはできない。彼女は私の言葉を聞くことはできない」

「4時。3時間前。私行ってくる。クマは架に連絡して」

 

私たちの住む街は海と山に囲まれていて、人口は約3万人。皆ここで生まれ、ここで死んでいく。ここから出て行った人を私は知らない。唯一の例外が舟だ。舟は普段漁業に使われ、鮪や鰹、海老をとってくる。海というのは魚が獲れる以外にどこか遠くへ繋がっていて、街の漁師たちは魚をとる他に遠くの魚と近くで獲れる魚や山のものを交換している。そのおかげで漁師以外は街から出ることなく遠くの魚を手に入れることができる。この街にいれば何も不自由はない。皆互いのことを知っているし、一緒に学校へ行って一緒に大きくなる。いずれ結婚して子供を授かる。山の近くや海の近くの村へ行く人もいるけど、だいたいはいずれ街に戻ってきて街でずっと暮らすことになる。天候に恵まれ、自然に恵まれ、人も温かく、どこにもここを離れる理由が存在しないからだ。

 

それなのにクマは母が舟に乗ったという。母は漁師ではない。漁師以外の者が舟に乗るなど聞いたこともない。自転車のペダルをこぐ足が重く、息が乱れる。運動量にそぐわない速度で心臓が鳴る。確かに母はよく一人でふらりと出かけていた。それでも毎晩夜更けには帰ってきていて、目覚めたらいないなんてことはなかった。右を見ても左を見ても、母はいない。

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