舟乗り

私たちの家は、この街の住人にしては珍しく、漁師でもないのに海に近い。自転車で10分も漕げばもう水平線が見える。私も母も海を見るのが大好きで、そのくせ二人とも水に濡れたり泳いだりするのはあまり好まなかった。母が学生だった頃、体育の課外授業で遠泳をした同級生が溺れて死んだというのを聞いてから、私は海がというか水が、息ができなくなることが恐ろしくなったのだ。そんな母は怖がりの私とは裏腹に、単に日焼けや海水浴の後のべたべたが嫌いなのだと言っていたけど。

 

9月になり閑散とした公営プールの横に自転車を止め、砂浜を越えて舟着場へ向かった。スニーカーなんて履いてきたから、砂の上を駆ける度に砂が入り込んで気持ち悪かった。足元の不快感が不安を煽る。

 

3時間も前に出て行った母の姿は当然見当たらず、それでも私は視力2.0の全てを賭けて砂浜を、海を、水平線の向こうを見渡した。朝陽が容赦なく私の目を焦がし、色素の薄い目が赤くヒリヒリしていくのがわかった。一度目を閉じ、息を入れ替える。瞼の裏に光が見えるほどぎゅっと瞼を眼球に押しつける。

 

目をかっと見開き最初に飛び込んできた漁師に尋ねる、

「母を、雪乃を見ませんでしたか?もしかしたら数時間前にここに来たかもしれないんです。そして舟に乗ったかもしれないんです」

 

色黒の男は眠たそうに欠伸をしながら答えた、

「雪乃さん?見てないなあ。というのも3時間前といえば漁に出てたからね。忙しくてこの辺りに通行人がいても気づかなかったろうね。大体なんだって雪乃さんが舟に乗るんだ」

「それはクマ…、見た人がいるって。それに今朝からいないんだ。朝からいないなんてこと今までなかったのに」

二人が揉めていると思ったのだろう、仲間の漁師や色黒の漁師の妻らしき人が集まりだした。

「おう、ちょうどいいや。誰か今朝早くにここらで雪乃さんを見なかったかい?こいつが探してるって言うんだよ」

「雪乃さんがいりゃあ誰かが気づきそうなもんだがなぁ。見とらんなぁ。お前らはどうだ」

「いや、いつも通りここらに街のもんは来とらんと思うがね。雪乃さんとあんたくらいだよ、ここが好きだと言うのは」

 

誰もが母を見ていないと言い、不安が加速した。舟乗りなしで舟に乗ることはできない。舟がないし、舟を動かす技術もない。明らかに肩を落とす私を気の毒に思ったのか、最初の漁師が提案した、

「今からで良ければ、一緒に舟に乗ってみるか?ちょうど東の港へ用があんだよ」

 

東の港とはここよりさらに大きな舟着場で、毎朝魚の競りが行われる街一番の港である。競りはもう終わっているはずだから、きっと用なんてないはずなのに、お人好しの漁師は続ける、

「もしもここから舟に乗ったんだとしても、行き先は東の港か西の湖どっちかしかねぇ。湖はこっから3時間はかかるけど、港は1時間だ。それに湖はただの湖だが、港には人も物もたくさんある。山の連中もあっちに集まる。人が行きそうなのはそっちだと思うんだよな」

 

東の港も西の湖もどちらも話で聞いたことしかなかった。周りに行ったことがあるという人を見たことがない。母を追わなければいけないとわかっているのに、不安な塊が胸を圧迫して返事ができなかった。震える目で漁師を見上げ、何か言葉を出そうと口を開いたその時、ぎゅんと海から突風が吹いた。舟の帆がバサバサと揺れ、髪の毛が舞い上がり、遠くで自転車の倒れる音がした。漁師たちやその家族は何事もなかったかのように喋り出そうとする私を見つめる。その先で私は真っ白になっていた。

 

息ができない。息ができない。風が私の呼吸を止める。助けて。怖い。

 

何かが走馬灯のように頭を駆け巡り、手足の感覚が抜け、自分が立っているのかどうかもわからなくなった。もう一瞬の突風は止んだのに、ここに立っていたら呼吸が止まると脳みそが錯覚している。逃げたい、苦しい、いやだ。

 

「おい!おい!大丈夫か?」

 

みるみる青ざめる私を不思議そうに不安そうに見つめる漁師たちが視界に入った。私は自分が海辺に立っていて、いや、今にも崩れ落ちそうになるのを漁師に支えられているのに気づいた。私はそれでも風が怖くて、優しい漁師にきちんとお礼を言うことすらできず、プール脇に残した自転車の元へ走った。どこか、壁のあるところへ。この恐ろしい風から守ってくれるところへ行かなくては、息ができなくなる。

 

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