姉弟

一瞬なぜ弟から電話がかかってきたのかわからなかった。無口な彼から電話をかけてきたことなどこれまで一度もない。待ち合わせ場所で会えなくてかけてきたくらいだろうか。寝起きの頭の処理速度は致命的に遅く、通話ボタンを押した時には既に10コールほど経過していた。

「はいっ!カケル、ごめん寝てた!」

「だったらさっさと切ればよかった。で、どうなの。いなくなったってクマから聞いたけど」

「そうなの。朝起きたらベッドにいなくて。花に水でもあげてるか、風呂場だろうと思ったけど違って、クマが言うには舟に乗ったとか乗らないとか。でもね、その後すぐに自転車で港まで行ったんだよ。そこの人に話したけど母さんみたいな人は見なかったって。でもクマはなんか落ち着いててさ、なんかもうわけがわからなくて。カケル、どうしよう」

「ふうん、そう」

「ちょっと、もっと何か言うことないの」

「駐車場空いてる?」

「は?」

「今さ、とりあえず車運転してるところなの。あと30分くらいでそっち着くけど、車停めるスペースある?確かそこのお隣さん今いなかったよね」

架がこんなに早く動けるなんて、まだ子供だと思ってたけど案外頼りになるな、もう来てくれるなんて嬉しいな、駐車場はええとどうだっけ。まだ少しぼんやりしている頭で思考が混雑してしまった。その間架が静かに答えを待ちながら運転するのかわかる。

「ちょっと待って」

窓からうちの駐車スペースの隣に空きがあることを確認し、架にそのまま向かってくれて構わない旨を伝える。ついでに明日の朝のヨーグルトが切れているから買ってきてくれなんて付け足す余裕もあった。買ってきてくれるかどうかはまた別の話だが。

「それじゃあ、あと30分だから。もう切るね」

あっけなく電話は切れたが誰かがこっちに向かってるというだけで心強かった。まして架なら頼もしい。弟とはいえ、家族で一番まともで大人なのは彼なのだ。

 

架は三つ下の弟で、私にとって家族であり、親友のような存在だった。いろいろややこしいところのある家族だったから、子供ながら架を守るのが私の使命のように感じていて、例えばもしも急に銃を持った強盗が襲ってきたら架をあそこに隠して私はこうして彼を逃がそうと計画したり、もし夜眠っている間に地震が起きて箪笥が布団の上に倒れてきたら腕を突っ張って箪笥を支えて架を逃がそうとシミュレーションをしたり、両親が喧嘩をして皿が割れたりすると、それが聞こえないように、見えないように炬燵の中に二人で入って本を読んだりしていた。

彼が中学生になった頃、彼と母がぶつかることが増えてそれが原因の一つで母はよく夜中に出かけていた。ストレス発散のドライブだろう。母がいない間、喧嘩の後で不機嫌な架を見張るのは私だった。グレて家出しないかとか、夜遊びに走らないかとか、私の心配事は思春期の子供を持つ母親そのものだった。でも私は親じゃないから偉そうに説教を垂れる気もなくて、母と姉との役割の間でジレンマを抱えたりもしていた。

無口な彼が私をどう見ているのかは正直わからないけれど、仲が良いのは間違いない。私が彼を思うように彼も私を好きでいてくれたら嬉しい。そんな彼も今やすっかり大人になって、より無口でぱっと見何を考えているかわからないけど家族一番の常識人で生活力のある人間に成長した。家から少し離れた高校に通ってからはずっと一人暮らしをしていて、それも彼の成長の糧になっているんだろう。今は海よりの我が家からはやや離れた山寄りの街で働いている。仕事が忙しいみたいで、お正月にしか会えないのが寂しいけど、架が楽しそうにしているので安心だった。

そんな彼がお正月でもないのに家に帰ってくる。しかもクマから連絡が行ってすぐに向かい始めたんだろう。本来架の家からここまでは1時間かかるからもう半分は来ているのだ。

私は念のためもう一度駐車スペースが空いていることを確かめに行った。着いてからやっぱり空いてませんでしたとなれば架がすぐ不機嫌になることは明らかだ。改めて、窓の遮光カーテン越しではなく、ベランダに立って確認をすることにした。サンダルを履いてベランダに出ると母のお気に入りの植物たちがずらりと並んでいる。そうだこの子たちにも水をやらないと。駐車場に目をやるとさっきは気がつかなかったことに気がついた。そこには母の車があったのだ。母がどこかに行くとすれば普通必ず車に乗る。街に行くにも、山に行くにも車がないと遠すぎる。それがそこに残ったままということはどういうことだろう。やはり母は車ではなく舟に乗ったのだろうか。

 

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