まんまるお月様

「ただいま」

そう言って架は靴を脱いで上がった。私のサンダルの横に並んだ白いスニーカーは長細くて、長らく一人暮らしか母としか暮らしていなかった私には滑稽に見えた。私の中で弟は13歳くらいの印象で止まっている。クラスで2番目に身長が低くて、ソプラノも歌えるくらい豊かな声で上手に歌う。子供の頃からの乱視を治すために眼鏡をしていて、小さく、可愛い生き物だった。彼と私は同じ年に家を出た。彼は15、私は18だった。それから何年後だったか、ある夏彼は変わってしまった。母に命じられたのだろう、私が家に戻る日に「今日の夕飯何がいい?」と電話してきたのが弟だとわかるまでどれだけ時間がかかっただろう。母から彼は変わったと聞いてはいたけど、知らない人が電話越しにいるみたいで少し怖く、でも確実に大人になっていく彼の成長が嬉しくもあった。その日帰宅すると玄関を開けてくれたのは彼で(これも母に言われたのだろう)、ぬっと伸びた腕、足、首、見上げないと合わない視線に呆気にとられた。男の子って本当に変わってしまうんだ。あれから何年経っても彼の声は聞き慣れないし、座っていた彼が立ち上がる時あれ、思ったより大きいぞと驚いてしまう。

変わったのは外見だけではない。中身も大人になっていた。離れて暮らす時間が増えるほど彼は自分の世界を持つようになった。私が自分の世界を外で作っていったように。いつの間にか私の知らないスポーツが彼の中心になっていたり、毎日車を運転していたり、文系の私にはよくわからない理系の仕事に就いていたり、自炊をさらりとこなすようになっていたり、激しかった好き嫌いがなくなっていたり、人前で敬語を使ったり、大人らしく振舞ったり、我慢をしたり、遠慮をするようになっていた。いつか私の知らないうちに結婚したり、親になったりするんだろうか。ふとそんなことが頭をよぎると心がぎゅっと苦しくなる。

架は私が3歳の時に生まれた。朧げながら、彼が生まれる頃母が遠くに行ってしまって、彼が生まれた後も母が彼につきっきりになってしまって悲しかったのを覚えている。母の入院する病院にお見舞いに行くのが嬉しくて、果物が大嫌いな私はフルーツの盛り合わせを持っていったものの、こんなのもらっても嬉しくないわなんて生意気に思ったりしたものだ。ちょっとの間母と楽しくおしゃべりをすると母の母(おばあちゃん)が私を連れ出してしまう。エレベーターまで見送りに来てくれる母の前で私は毎回大泣きをして、母と祖母を困らせた。確か、祖母に抱えられて強制的にエレベーターに乗せられ、それでもエレベーターから降りようと必死にもがいていた。

祖母の家で眠る時、私はなぜかお月様を見ていた。本物のお月様ではない。折り紙の金色で作ったお月様だ。しかも折り紙として使うのではなくて、四角い紙の端を少しずつ少しずつ折ってだんだん丸くしていくのだ。当時私は自分のことを世界一まんまるを作るのが上手い人間だと思っていた。数少ない金色の折り紙を丸くしてはそのまんまるさに満足し、夜眠る部屋の襖の右上に貼り付けていた。どうしてまんまるで、どうして金色で、どうしてお月様だったのか、今となっては全然わからない。きっと私にもわかってなんかなかった。それでも寂しい一人の夜にまんまるお月様を見上げて眠っていたのだ。

架が生まれてからは私に使命ができた。母から与えられた使命。母は架が生まれると私に言った。

「架のこと、これから二人で一緒に育てていくんだよ。よろしくね」

それを境に私はただの娘ではなくなった。私は娘であり姉であり母になったのだ。母が病院に行く時など架と留守番することが多かった。そんな時に鍵って架はうんちを漏らしてしまったり、電化製品のコードをハサミで切ってしまったり、寂しがってぐずったりする。その度に私は「お母さん」として架のうんちを片付け、架を火花から守り、家の前に茣蓙を敷いておままごとをしながら二人で母の帰りを待った。そうすると母が大急ぎで帰ってきてまた3人になるのだ。

架が大きくなった後も、学校で問題を起こす彼のために先生に呼び出され参ってしまう母、架にどう話していいかわからない母の相談を聞いては私なりの助言をして、同じ「子供」の立場から彼に声をかけ、母の声を届けようと努めた。4人家族なのに簡単にばらばらになってしまいそうな私たちをなんとか結ぼうとバランスをとろうと必死だった。そしてその役割を楽しんでいた。

たまにコップがいっぱいになってしまうと、夜ベランダに出て空を見上げた。冬の空が好きだった。冬になると星がくっきり浮かび上がって、見つめれば見つめるほどたくさんの星が見えるようになって、空が丸くて、どこか遠くには宇宙が広がっているんだと思えたから。星空が明るくて、暗い夜でも灯をくれたから。特に満月の夜はいっそう明るく、何か秘密の力が降り注いでるみたいだった。まんまるお月様、私に家族を守る力をください。そうやって、誰にも聞こえないように布団の中にぐるぐる包まったり、シャワーの水を出しっぱなしにして嗚咽を漏らしたことを解放する。

そんなことを知ってか知らずか、今の架はすっかり大人になっている。4人の中で一番まともなくらいに。守るべき対象としてではなく、対等な仲間として架が私の元に帰ってきた。家族はばらばらではあるけれど、まんまるお月様以上の力がきっと今なら二人にはあるはず、と思いたい。